第2章 大農園時代

1841年、イギリスに恩義を売る引き換えに同盟を結ぼうと思ったが、恩義を安売りしたくないのでやめた。

シスプラチナ・コリエンテス奪還戦争に向けてしばし待機。

1842年には公共学校を制定、さらには大気圧機関の研究も完了させる。

シスプラチナ奪還戦争

1843年、シスプラチナ(ウルグアイ)に侵攻。ついでにアルゼンチンを叩こうと思ったが、拒否られた。


1843年、征服が完了。
既にウルグアイには肥料工場があったが、撤去はされないようだ。


1844年、集約農業の研究が完了。
コーヒーの川イベントが発生。コーヒー農園をどんどん作っていきたい…が、人が足りない。

入植の法律を通したら高潔な君主のポイントが1下がった。奴隷廃止で下がることには気づいていたが、入植(農奴制・小作農廃止)でも下がるのか。

1846年、保護国だったペルーを併合し、ついてきたアルゼンチンも保護国化。
したが、アイマラ族が反乱を起こす。

…といったところで早くも10年が経過。ちょっと振り返ってみよう。

GDPは倍増。ペルー・ウルグアイ・パラグアイ併合による人口の伸びを上回っている。
生活水準も順調だ。

1846年7月8日、鉄道の研究が完了。
建設力は足りないが、どんどん広げていきたい。

1848年、奴隷禁止の制定開始。1850年、制定完了。途中革命の進捗が進み高潔度が下がってしまった。

その後も地主を強力な状況下で追い出して-1、皇太子が死去して-1とついに10%まで下がってしまう。

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